「新宿西口・ダンボール村に生きる人々ーその1」
「こんなものかなあ。。。」税関を抜け成田空港のロビーにでた僕は思わずつぶやいてしまった。予想していたほどの感激とは裏腹に、変に冷めている自分に気付いたためだった。僕にとってはなんせ丸4年ぶりの日本だ。もう少し感動のようなものがあってもいいと思うが、何とも呆気ないこの自分の感情に僕自身やや驚いてしまった。もっともたかだか4年くらいではこんなものなのかもしれない。へラルドで働き始めてからもう1年以上がすぎた。今月ようやく初めての休暇をもらうことができ、2週間の予定でしばらく会えなかった親の顔を見に帰ってきたわけであるが、同時に日本でぜひ取材してみたいとかねがね思っていたことがあった。日本におけるホームレス問題である。購読している雑誌などから、日本のホームレス人口が年々増加しており、東京ではこれが大きな問題になっているということは知っていたが、日本を離れて生活している僕にとってはどうもいま一つピンとこないものがあった。僕が中学生だった頃にも「浮浪者」と俗に呼ばれる人達は街でたまに見かけることはあったが、まさかニューヨークやボストン、その他アメリカの大都市のようにあの東京でそれほど多くの人達が路上での生活を余儀なくされていることなどはどうにも考えにくかった。詳細や背景などもよくわからないこともあって、このホームレス問題についてはぜひ自分で取材をしてみたいと思っていたのだが、今回の休暇中に限られた時間ではあるが何とかその機会をもつことができそうであった。 実家のある仙台で家族とともに数日間を過ごした後東京に出てきた僕はまず新宿連絡会の稲葉さんと会った。新宿連絡会というのは「新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議」の略称で、その名が示すとおりホームレスの人々の権利を守るために組織されたグループであるが、東京大学大学院に席をおく稲葉さんを始めとするボランティア約10名を除き、あとは新宿のホームレス当事者達が中心になって活動をおこなっている。東京都や新宿区との交渉、炊き出し、それから夜間のパトロールなどが主な活動内容だ。新宿駅西口で待ち合わせた稲葉さんはそのまま僕を駅構内にある通称「ダンボール村」へ連れて行った。通路の角を曲がったところでぱっとぼくの眼にはいってきたのは、100、いやもっとあるだろうか、駅構内に乱立するダンボール小屋の集落であった。そのなかには雑誌で以前みたことのある、ペイントの施してある小屋もいくつかあり、これらを見つけると僕のなかで「ああ、ついに来たんだな」という何か感慨の様なものが沸き上がった。不思議なもので、この感慨は今回成田空港に到着したときの呆気なさに比べ、はるか僕の胸の奥深いところから沸き上がってくる感情だった。稲葉さんの後をついてダンボール小屋の間をぬう細い通路をはいっていくと、小屋で三方を囲まれた二畳程の空間で50歳代の男性3人がタバコをふかしながらくつろいでいる。きちんと敷かれたダンボールの中心にちいさな卓袱台が置かれ、その脇に布団がしかれている。なんだかちょっとした「居間」のようだ。みんなとはすっかり顔見知りの稲葉さんは靴を脱いでこの「居間」にはいっていき、僕は僕らのために場所を開けてくれた人達に「今日は」と声をかけながら稲葉さんのあとに続く。腰を降ろした稲葉さんは新宿のホームレスの人々の現状について早速話をはじめてくれた。 現在東京都内には5千人を超える人々が路上での生活を余儀なくされているという。東京都が昨年2月に発表した数は3千3百人であったが、地域によってかなりの見落としがあったうえに、2月というのは公共事業の盛んな時期にあたるためにこれに関する仕事が多く、野宿者の数は1年のうちでも最も少ない。実際に求人数の激減する公共事業の端境期である5月には都内のホームレス人口は5千か6千になるということだ。日本のホームレスの特徴として、彼等の6割以上が土木、建築関係の日雇労働者であったことがあげられる。多くが地方出身者で、日本が高度経済成長の真っただ中であった60年代、70年代に仕事を求めて上京し、東京オリンピックのための都市改造工事やその他の諸々の産業開発にかりだされた肉体労働者達である。縁の下の力持ち的存在で日本の経済成長を支えてきた彼等が50代、60代となったいま、住む家もなくこうしてダンボールの中での生活を強いられている。どうしてこういう事態に陥ってしまったのか。後に述べていくとおり、どうやらこれは日本的資本主義の構造上の問題に根付いており、発展する日本経済のなか、それを根底で支えてきた彼等日雇労働者が戦後からずっと置かれてきた特殊な立場と深く結び付いているといえそうだ。そして現在この問題を抱えている東京都の、非情なまでのホームレス排除対策について稲葉さんから話を聞いているうちに、この日本におけるホームレス問題の背景にあるものが僕のなかで徐々に明らかになっていった。 稲葉さんからひととおり話を聞き終わると、なるべくいろいろな人達と話をしたいと考えていた僕は早速、傍にいた男性に声をかけてみた。小川文男さんというこの男性は46歳、薄くなった頭のせいだろうか、実際の年齢よりも少し老けて見える。北海道で生まれた小川さんは18歳のときに東京にでてきた。大工として10年以上仕事をしてきたが、12、3年前だったか、仕事中に手に大怪我をして以来、細かい作業を必要とする大工の仕事は続けられなくなった。それからは現場にはいって人夫仕事などをするようになる。大工時代から現場にある仮設小屋などで生活をしていたが、大工をやめてからは飯場から仕事にいくことが増えてきた。飯場というのは建築会社の下請け事業所がおこなう人夫出し場とでもいうべきもので、労働者達はプレハブ小屋の大部屋に集団で詰め込まれ、そこで生活をしながら毎朝現場に送られていく。まあきれいな言い方をすれば飯場とは労働者のための寄宿舎といったところか。労働者達はこの飯場と短期あるいは長期の契約を結び、そこで寝起きをしながら斡旋された現場で働き日当をもらうわけだ。しかし足に持病を持つ小川さんは飯場にはいっても長続きせずすぐクビになってしまう。仕方なくサウナを生活の拠点とするようになった。サウナというのは施設の整った宿泊可能な現代風銭湯のようなもので、大浴場で風呂、サウナにはいり、仮眠室で眠ることができる。一泊3千円位だ。ここからなら体調の善し悪しで仕事に行く回数を自分で調節できるからだ。しかし経済が下火になるにつれて数年程前からは仕事は減る一方。それでも小川さんは週に3ー4日は高田馬場へいって日雇仕事をしながら食いつないできた。「お金が少しある頃はサウナ暮しでもなんとかなったんだけどねえ」彼はいう。「。。。それももうできなくなった」足の具合がだいぶ悪くなってきた去年あたりから日雇仕事からもじょじょに離れ、小川さんの野宿生活がはじまった。恥を忍んで見よう見まねでダンボールをつくり、仕事バッグを枕にしてよこになったが、はじめのうちは「心細くてなかなか眠れなかった。。。」という。彼が西口のダンボール村にきたのは今年の1月。いまでは必要に迫られると雑誌の回収(電車内やホームから雑誌類を集めてきてそれを再び3分の1以下の値段で売る)などをして食いつないでいる。口数の少ない小川さんはなかなかの芸術家でもある。昨年からダンボール村を訪れ続けホームレスの人々の小屋に絵を描き続けている若い絵かきさんと知り合ってから、自らも筆をとるようになった。以前はただ眼を背けて通りすぎるだけだった通行人達も、ダンボール小屋に描かれた絵をみてふと立ち止まるようになった。「そんな時に彼等とちょっとした言葉を交すことがある。」小川さんはいう。ホームレスというととかく悪い印象が先行しがちだが、「僕らだって彼等と同じごく普通の人間なんですよ。間違った認識を解くためにも、そういう外界との”接点”をつくってくれた絵かきさんには感謝しています」絵を描く以外にも時折つくる詩や短歌にも文才を発揮する小川さんだが、僕と話しているときは、ホームレス増加の原因や、その対処を迫られた東京都や新宿区が救済対策抜きに強引に野宿者排除の政策を進めるその背景を原稿用紙10枚以上にわたってかき綴っている最中であった。 小川さんのように、多くの土木建築労働者達とって飯場が彼等の住居としての役割を果たしてきた。飯場にもいろいろあって食事のいいところから粗末なところ、また古株が親分面でやたら威張りくさっているところ、挙句に暴力団がらみだったりするところなど千差万別だ。田舎町などでまわりになにもない場所では、飯場内で酒を買うにも市価の2倍3倍を払わされるところもあるし、日当をごまかされるところもある。彼等はある飯場が気に入ればそこに長く居着き、そうでなければまた別の飯場をさがすことになる。契約が満期になって飯場をでるとドヤ(簡易宿泊所)などでしばらく骨休めをして、所持金が底をついてくるとまた仕事を求め飯場にはいる。彼等はそうやって飯場を渡り歩いてきた。自分の家など持ったこともない日雇労働者達にとって、仕事を失うということは、住みかを失うということに直結しているのだ。 (次号につづく)

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