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『救われる命の影に』?
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1999年4月12日
フレーミンガム・ステート・カレッジのキャンパスの一角ではこの日、交通事故でその若い命をおとした日本人留学生、間澤朝子さんを記念して設立されたメモリアル・ガーデンのオープン・セレモニーがおこなわれていた。これ以上は望めない、という程に空は晴れ上がり、暖かい陽射しが顔に照りつけてくる。日本から訪れた朝子さんの両親洋一さんと容子さん、そして妹の広子さんをはじめ、集まった70名程の大学関係者達は、春を色どる花々と一本の桜の幼木の植えられたささやかな庭を囲んで、各々朝子さんとの思い出を胸に蘇らせているのであろう、しばしの静粛があたりを包んでいる。地面に埋められたパネルには朝子さんを偲んで、" In Memory of Asako Mazawa, 1972-1997, Class of 1998" の文字が彫られている。参列者のなかには、このセレモニーのためにニューヨーク郊外からはるばる3時間の道のりを息子と共にかけつけたドリス・カロンさんの姿もみえる。ドリスさんは、亡くなった朝子さんから肝臓の提供を受けその一命をとりとめた。彼女にとって、朝子さんはいわば命の恩人、であるのだ。 朝子さんの留学生活、そして不幸な事故に関するいきさつなどについては本紙98年7月号に「朝子さんの卒業式」というタイトルで述べたのでここでは詳しくは触れないが、事故後、脳死状態となった朝子さんから移植された臓器のおかげで、6人ものアメリカ人の命が救われた。この臓器移植は、生前の朝子さんの意志を尊重しての家族の決断であった。 間澤さん一家は、大学でのセレモニーのためともうひとつ、ワシントンDCにおいて開かれる全米臓器移植者の家族の集いに参加するために渡米したのだが、今回の彼等との再会は僕にとって、今まであまり深く考えてきたことのなかった脳死、及び臓器移植問題についてあらためて目をむけるためのひとつのきっかけとなった。特に今年にはいって日本では、臓器移植法が施行されてから初めての脳死移植の実施で大騒ぎになっていたということを耳にしていたせいもある。 臓器移植が日常的(というのは少し大袈裟かもしれないが。。。)におこなわれているアメリカでは、特殊なケースを除いて移植手術がニュースになることはほとんどないだろう。自分の不勉強を忍んでいえば、今年の騒ぎがおこるまでは、僕は日本においても臓器移植というのは今まで一般的におこなわれていたものだと思っていた。それが、今回のケースが日本において97年に臓器移植法というのができて以来初めてということで、その破廉恥な報道の問題と共に、アメリカと比べたときの日本の出足の遅さに驚かされたのだ。過剰報道の問題については脱線して長くなるのでここでは触れないが、臓器移植についての日米の差を考えてみると、技術的なギャップというよりもむしろ、倫理的な部分での脳死・臓器移植に対する両国の異なった感覚がその要因だったのだろう。臓器移植の問題は、脳死・心臓死の問題ときっても切り離せないものであるが、この「脳死」に対する概念が、西洋と東洋では少し違ってくるのではと思えるからだ。 ここで脳死について簡単に触れておくと、これは頭のけがなどで脳の機能が完全に停止してしまい、自発呼吸はないが、人工呼吸器によって呼吸が可能で心臓は動いている状態、をいう。すなわち、脳は死んでも、それ以外の体は普通どおり生きているわけだ。血液は流れもちろん体温もある。これに対し心臓死というのは通常僕らの思い浮かべる死のことで、心臓が止り、体全体の機能が停止して、文字どうりの冷たい体となる状態。僕ら日本人、もう少し広げて東洋の国々(特に仏教国。他の国々に関しては僕は体験的に言及できない。。。)の感覚からしてみると、いくら反応がなくても、心臓が動いていて体も温かければそれを死とみなすのは容易ではないだろう。そんな状態で臓器を取り出すということは、あえてその人の息の根を完全に止めてしまうようなものだ。勿論西洋の人々のもつ死に対する感覚についても同様のことがいえるはずだが、東洋の先をいった外科手術の発達に加え、キリスト教的な慈善的精神の基盤のうえに、「脳死ー臓器移植」の概念が日本などに比べ受け入れられやすかったのではないだろうか。 もともとこの問題、特に脳死の概念が定着していない日本の社会の中でとても白黒のはっきりとつく問題ではない。クローン技術などにみられるように、見方によっては進歩し過ぎてしまったといえる現代の遺伝子工学や医学の技術で、自然の摂理である生と死を人間の手によって必要以上にコントロールするということに対する倫理上の議論もあるだろう。実際、他人の臓器をもらってまで生き延びたくはないと思っている人も少なくないはずである。僕自身も、脳死状態における臓器提供はいっこうに構わないが、移植される側となるとちょっと抵抗がある、というのが本音だ。死ぬときは死ぬのだから。。。という諦めが頭の中にあるからだろう。賛成反対どちらにせよ基本的には本人の自由が尊重されるべきだし、その点ではドナーカードの普及などで臓器移植に対する個人の意志を明らかにするシステムが日本においても徐々に浸透しはじめたところだ。 しかし、愛する家族の一人が当事者となった場合、親族としてこれを割りきって考えるのは相当難しいだろう。もし愛する家族の誰かが脳死状態になったとき、その臓器を必要な人のためにどうぞ使ってください、などとすんなりいえるであろうか?また逆に家族の一人が臓器を必要とする状態になったとき、「他人の臓器をもらってまで生かすことはない。。。死ぬときは死ぬんです」などと、移植によって生きる望みがあるのに諦めることができようか? 臓器提供の意志を生前から家族に伝えていた朝子さんの場合でさえ、事故の知らせを聞いて日本からかけつけた家族が決定を下すまでには相当な葛藤があったであろうことは想像に難しくない。そんな状況のなかでの唯一の救いは、家族の気持ちを十分に尊重し、適切なケアをおこなってくれた病院のスタッフ達の対応だったという。当然のことのように臓器移植がひとつの治療法として根付いているこの国では、それを支える土壌として、臓器を与える側にとっても受ける側にとっても信頼のおけるシステムが医療制度のなかに整っているのだ。 それを必要としている患者の存在する限り、日本においてもこれから脳死からの臓器移植のケースは増えていくであろう。それと同時に、移植コーディネーターなどの充実を含めて、遺族の立場にたって臓器移植を考えていける社会基盤がいかにつくられていくかが課題となる。 「名誉学位も会場からおくられた祝福の拍手もとても嬉しく思う。だけど、本来ならここにいてそれを受けるはずの姉はもういない。。。」 昨年のフレーミンガム・ステート・カレッジの卒業式にて、亡くなった姉の朝子さんの代りに名誉学位を受け取った広子さんはこういっていた。残された家族にとって、朝子さんを失ったという悲しみは決して消すことはできない。たとえ彼女の臓器が6人もの命を救ったとしても、それによって遺族の悲しみがなくなるわけではないのだ。 臓器移植によって助かった人々のことや、困難な移植手術の成功はハッピーエンドのストーリーとして語られがちだ。しかし、その影には臓器を提供し、生涯を閉じた一人の人間がいたことを忘れてはならないだろう。いくら納得したうえとはいえ、臓器移植のプロセスのなかで一番の苦痛をあじわうのはなんといっても遺族の人々なのだ。 |
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